本の話し

2018年02月の本

 
 


 

 
Newtonライト『対数のきほん』
ニュートンムック

出版社:ニュートンプレス
発売日:2017/11/09

 高校時、数学Ⅱで学ぶ『対数』を覚えているだろうか? いわゆる“log”というものである。
    a>0,a≠1,M>0のとき
    logaM=p ⇔ ap=M
 という記載が教科書などには必ずあったはずだが、よく覚えてないあるいは忘れたという人のために分かりやすく説明すると、例えば「log28=3」なら「2(底)を何回かけたら8(真数)になるかなー? 3回、つまり3乗ですね」ということ。おわかりいただけただろうか?
 その当時は単なる数学の一分野としてただ漫然とやっていた人も多いと思う。特に文系のクラスなんかでは「log」と「10g」の書き分けの段階でつまづいたなんて話も聞く(実話)。
 人それぞれ得手不得手があるのは当然だが、しかし非常にもったいない話しだと個人的には感じる。特に高校で習う数学に関しては。対数以外にもベクトルや三角関数など、その考え方を知っていると何かと便利なものが非常に多い。
 
 月刊誌Newtonは日本の理数系雑誌の雄といっても過言ではない老舗雑誌だが、本誌とは別に別冊・ムックシリーズも刊行されていることを知っている人も多いだろう。理数系の各ジャンルの中で、更にテーマを区切った一冊完結の形をとるかなり詳細な入門用読み物という感じなのだが、ただネックだったのが値段の高さと再版率の悪さ。
 そこでこのNewtonライトシリーズである。読み切りやすいページ数はもちろんのこと、手ごろな値段と平易な内容で、Newton誌でもたびたび特集される人気テーマを気軽に読めるという、今までの別冊・ムックからさらに一段敷居を低くしたようなシリーズ。2017年秋から刊行されている。
 一時期「高校○○をもう一度やり直す~」とか「中学校の○○がおもしろいほどよくわかる~」といったシリーズが注目されたりしたが、もちろんあれもあれで悪くはない。でもやっぱり信頼と実績という意味ではブルーバックスに並んでNewtonシリーズは外せないだろう(昨今ブルーバックスシリーズも中身の薄い書き方をする著者を散見するようになって、個人的にとても物足りなさを感じている。分かりやすいんだろうけれど、あれはないわ…)。
 今回紹介したのはその第6弾にあたる対数についてだが、他にも周期表や気象に関する“きほん”シリーズが刊行されている。「○○をもう一度学んでみたい」あるいは「○○のさわりだけでも理解したい」という方には十分な内容になっている。
 
 何か新しいことを学ぶときもそうだし、忘れてしまったことを学びなおすときもそうだが、その時々の自分が理解できるレベルにまで立ち戻るということは決して恥ずかしいことではない。

 
よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話
いしいさや

出版社:講談社
発売日:2017/12/20

 海外の人と話したおり「私は無宗教です」などと言ったら怪訝な顔をされたという日本人は多いだろう。一方で日本において「私の宗教は~」などと言っているとかえって怪訝な顔をされることは多い。
 この差はなんなのかと一時期考えていたことがあったが、その時は「倫理規範をどこに求めているか」の違いという結論を得た。
 つまり、キリスト教徒なら聖書だったりイスラム教徒ならコーランなりといった聖典が良い例だが、その人や社会の倫理規範が宗教というものの中に依拠しているのか否かという違いだ。日本なら、仏教・神道などの教理や行事とは別に、普段の生活習慣の中にそうした倫理規範が依拠するところの宗教的行為が埋め込まれているために、あえて「私の宗教は~」などと明示せずともその人や社会の倫理観というものが成立しうるのではないか? 例えば、宗教の如何を問わず毎年何万人もの人が初詣へ行っているが、それももとをただせば宗教的行為だ。墓石だって要は石なわけだが、だからといってそれを蹴って歩く人はいないわけで…。
 大分話しが複雑になりそうなのでこの辺にしておくが、日本という国にあってその独特な下地をもつ宗教観の流れは、90年代の某教団の一連の大事件を象徴に、不況や自殺といった社会問題と相俟って、この国の多くの人に拒絶と需要という相反する働きを根付かせたといえる。
 この本に出てくる宗教団体を特定するのは容易い。それほどはっきりと書かれている。生々しいほどに。
 だが、それは決してその教団を糾弾したり安易に否定したりするものではなく、物心ついたころには母に連れられ教団の一員であった少女の体験と素直な実感だ。
 
 信教の自由という言葉がある。
 憲法第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とある。小難しいことは抜きにして、要は何を信じるも信じないもその人の自由だという決まりだ。
 物心ついたころから一教団の中にあって、しかし歳を重ねて見聞する社会が広がっていく中で何か異質な部分を感じ始める。その時、持続を選ぶか離脱を選ぶか、それもまた自由だ。
 ネタバレになってしまうが、作者は離脱する。そして離脱した結果、結論として何が残ったのか、…それは語られていない。きっと未だにこの話しは続いているのだろう。決してネガティブな意味ではなく。
  

    
 

 
アイヌ学入門
瀬川拓郎

出版社:講談社
発売日:2015/02/19

 よく書いているが私は現在北海道在住だ。生まれも北海道。
 そして常々、北海道はアイヌ抜きにしては語れないと考えている。
 自分に身近な例だと、私の実家は高祖父が本州より明治中期に開拓農民として移住したのだが、入植当時、近場にはアイヌの集落がいくつか点在していて、冬場などイタチやウサギを狩るための仕掛を教わったなどという話しが伝わっているし、旧友の中にアイヌの血をひく子もいた。殊、近郊の大都市・旭川にはアイヌの記念館があったり博物館でも関連した展示がある。そういえば著者は現在旭川市博物館の館長だ。
 冒頭、「アイヌは和人にとって『遠くて近い』人びと」で「従来指摘されてきた以上に複雑」な関係だと書かれている。本書はその距離感をはかるための羅針盤のような一冊だ。
 シベリヤから千島または東北といった広範な舞台で巻き起こった人や文化の交流、混沌、変容と受容。従来の研究書や関連書籍では見られなかった切り口で書かれたアイヌの姿は、北海道の一住人としてというよりも、この国に住む者として知っておくべきものではないかと思う。それは歴史や文化、教養といった知的好奇心の一端としてだけではなく、むしろ今を生きる自分たちには失われたなにかを掬い取るきっかけのためかもしれない。
 アイヌについての入門書としての内容はもちろんだが、読んでみてこうも豊かな気持ちになれる新書というのは珍しいと思う。著者独自の視点ももちろんだが、それ以上にアイヌが培ってきた歴史や文化の奥深さがそう思わせるのかもしれない。
 
 
 コロポックルとはだれか――中世の千島列島とアイヌ伝説

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