本日5月28日は嶺脇育夫氏のお誕生日。しかも今年で生誕50年ということで、氏の数々の伝説をまとめるとともに、ちょっとした検証もしてみましたのでご紹介したいと思います。
で、まず、
正直『嶺脇育夫』って誰?
という方のために一応ご紹介しておきますと、
嶺脇育夫氏の現在の肩書は
『タワーレコード株式会社 代表取締役社長』
皆さんご存知、タワレコの社長さんです。
「なんでそんな人が伝説持ってんの?」って方もいると思いますので更にご紹介しておきますと、
この嶺脇社長、知っている人は知っている、知らない人の間でも名高い生粋の『ドルヲタ』です。
はっきりいってその遍歴を顧みるに、嶺脇社長はアイドルヲタクであるが故に社長の椅子まで上り詰めたといっても過言ではない、それほどの伝説の持ち主なのです。
今回のまとめはネット上では当然のように有名な話しばかりなので、知ってる人も多いのではないかと思います。
しかし50歳の節目を迎えられるということで、あらためてその遍歴を回顧してみようと思います。
【略歴】
1967年5月28日生まれ。秋田県出身。
高校卒業後、自動車部品製造メーカーに就職し上京。
しかし、音楽関連の仕事に就きたいという思いから1988年タワレコに入社。
きっかけは当時通っていたタワレコ渋谷店で社員募集の張り紙を見つけたことによる。
渋谷店、池袋店などに勤務し、1994年心斎橋店スタッフ時に店長に就任。
1995年、心斎橋店で知り合った女性と3年間の交際を経て結婚。
新宿店店長時の2001年にはタワーレコードの最優秀店舗賞を受賞する。
その後、第一店舗運営本部本部長、執行役員就任、
取締役最高ブランド責任者兼最高情報責任者を務め、
2011年3月に代表取締役社長に就任し現在に至る。
とまあ、略歴を見る限り、結構なスピードでトントンと出世している感が否めない。
それもそのはずで、社長就任時、御年44歳という若さである。
さて、嶺脇社長の略歴をひとまず頭に入れたところで本題を時系列でまとめていきたいと思います。
まず、高校卒業後に就職&上京するも
「音楽関連の仕事に就きたい」
と思っていたということからも想像できる通り、嶺脇社長は昔から音楽が好きだったようだ。
中学生時、RCサクセションをきっかけに忌野清志郎に傾倒したことがそもそものきっかけだという。
曰く「勉強は嫌いであったが、音楽・本・映画を好む青春時代だった」とのこと。
その後洋楽をはじめパンクロックなどにもハマりつつ、一時期はコピーバンドを結成したりもしていたらしい。
上京後には更に拍車がかかってようで、終業後は方々のライブハウスに直行するという、なんとも音楽三昧の日々を送っていたとのこと。
この頃ハマっていたのはブルーハーツで、都内で行われるライブには足しげく通い詰めたらしい。
【1988年 タワーレコード入社】
スタッフ募集の張り紙を目にした渋谷店から勤務をスタート。
当初よりCDショップなどでは花形とされるバイヤーになりたいという野望をもっていたらしく、池袋に新店舗が出るのを期に移動&店長に直談判して晴れてバイヤーとなった。
この辺り、凄まじい行動力ともいえる。
1990年、今は無き心斎橋店に立ち上げスタッフとして異動。
94年には店長へと昇進している。
この心斎橋店、立地条件などあまり恵まれた環境ではなかったようで、開店後の売れ行きはイマイチだったようだ。
しかし、地元スタッフの感性を頼りに品揃えを充実させたり、マニアックな商品を配置するなどその評判が口コミとなった。
また、試聴機に工夫を凝らしたりしていたことなど、当時のタワーレコード社長からは「この店はお前の箱庭だな」という評価を受けた。
これらは後のいわゆる“メガストア”の雛形になったとされる。
更に98年には新宿に「1000坪の箱庭を作ってくれ」という社長直々のお達しにより新宿店の店長に就任。
なお略歴の通り、心斎橋店時代に結婚をされているが、曰く「まだ結婚をする気はなかったが、外堀を固められて結婚せざるをえない状況に追い詰められてしまった」とのこと。
しかし後に社長自身「ヲタ活動が続けられているのは奥さんのおかげ」と方々で口にしている。
ドルヲタの鑑のその妻もまた鑑のような人であるようだw
【2001年 ターニングポイント】
さて、この新宿店店長時代には略歴にある通り、
世界中にあるタワーレコードの全店舗の中から最優秀店舗賞に選ばれている。
心斎橋店時代の試行錯誤から生み出された自身の経営哲学がここで一気に開花したといえる。
実際のところ、日本屈指の繁華街の巨大店舗を束ねていたのだ。スタッフの人数もハンパない。
嶺脇社長はその一人ひとりと密にコミニュケーションをとることが、好調な売れ行きを維持した秘訣となったようだ。
と同時にそれは多忙な毎日をも意味していた。
そんなある日、疲れ切って帰宅した後、ビールを飲みながら横になってテレビを何気なく見ていた際、元モーニング娘。の辻希美がたまたま映ったのを目にし、
「かわいい」
と思ったらしい。
曰く「スッと入ってきた」
余談だが、後年、『タモリ倶楽部』で嶺脇社長が取り上げられた際、ゲストで出演していた吉田豪・柳原可奈子両氏による
「人間、弱っているときにアイドルを好きになる」
という証言がある。
こうしてドルヲタとしての(健全な?)一歩を踏み出した嶺脇社長は当然の如くモーニング娘。にハマった。
その熱は相当激しかったようで、ハロプロ絡みのテレビ番組を全て録画する勢いだったという。
また社内においても「ハロプロコーナーを作れ!」と啓蒙活動を開始したとのこと。
ただし、スタッフからはあまりいい返事をもらえなかったらしい。
【2002年 名言誕生、そしてドルヲタの鑑へ】
これまでの仕事上での様々な功績が認められた形で、この年、第一店舗運営本部本部長に就任する。
大都市圏にある大型店舗を統括する役職である。つまり、社内でも強い発言力を持つに至ったのだ。
そこで嶺脇社長は、全国マネージャーミーティングの折、全マネージャーが集う会議の場で
「メロン(記念日)を売れ!」
と発言した。もはや公私混同の言動である。
当時、ドルヲタ界隈では有名であったけれど、あまりCDが置かれていなかったメロン記念日をプレゼンした。
出世したとはいえスタンスを崩さないあたり、とても好感が持てると同時にご本人的にもますますアイドル熱がヒートアップしてきたようだ。
嶺脇社長がファンであると公言したアイドルは何人かいるが、そのうちの一人が元モーニング娘。の紺野あさ美である。
紺野の地元・北海道札幌市で紺野の父はカクテルバーを経営しているのだが、嶺脇社長は札幌出張の折、「“たまたま”夜の予定が空いていたので」という理由から聖地巡礼としてその店を訪れたりしている。
2004年、店舗運営担当の執行役員に就任。この頃、まだインディーズだったPerfumeにハマる。
2005年には最高店舗経営責任者兼取締役にも就任。この年にはBerryz工房・℃-uteにハマる。
全国ツアーのライブなどにも、東京近郊のものには足繁く通うようになる。
また、ハロプロエッグの定期公演などにも顔を出し、新生アイドルの発掘も行うようになる。
ちなみにこの頃、仕事中にもずっと音源を聴くようになっており、仕事に支障が出始めたようだ。
【2006年 禁断の行為に手を染める】
嶺脇社長は最初の頃、Berryz工房では嗣永桃子のファンであったとのことだが、ハロプロショップで見かけた熊井友理奈の生写真の可愛さに衝撃を受け、その場で熊井推しに転じた。
以降、熊井の生写真全コンプリートを目指し、素材は同じでも限定品ということで店舗名の印刷が違うものやコメントが違うものをそれぞれ購入したり、他のメンバーの写真でも熊井の腕やら足やらが一部写っている写真でも蒐集し始めた。社長に就任した2011年時点では、その総数は2500枚に及んでいたという。
なお、身体の一部だけ写っている写真に関しては、楽曲のフォーメーションより位置を特定して熊井であるかを鑑定していた。
このエピソードに関しては前出の『タモリ倶楽部』内でも紹介され、結果、全国のドルヲタたちから絶大なる信頼を得るきっかけとなった。
また、熊井との握手会に参加するため、禁断のCD複数買いにも手を染めた。
とはいえご本人曰く「20~30枚程度」とのこと。
なお、実際に握手会に参加した時のことは、緊張のあまり記憶が飛んでしまっているらしい。
【2008年 Negiccoにハマる】
もはや神話級の逸話がはじまるのはこの頃。
2003年、JA全農にいがたが展開する新潟名産ネギ「やわ肌ねぎ」のPRのために結成されたユニット・Negicco。
当初は期間限定ユニットだったが、そのまま活動を延長していた。が、所属先がなくなるなど、地道な活動を余儀なくされていた。
そんな中、ライブパフォーマンスに心打たれ嶺脇社長はもちろんハマってしまい、年数回都内で行われるライブイベントに足繁く通うようになった。
そして社長就任直後、タワーレコード内に自身でアイドル専門レーベルを立ち上げた際、その第一弾アーティストとしてNegiccoを起用した。
しかし、レーベル立ち上げ発表の当日まで、社長とメンバーは会話すらしたことがなく、あろうことかメンバーからは「いつもいるけどこの人なに仕事してる人なのかなぁ?」などと、ほぼ不審者扱いされていたらしい。
Negiccoのその後の活躍は(知ってる人にとっては)ご存じのとおり。
【2009年~ スマイレージ・さくら学院、そして社長へ】
最高ブランド責任者兼最高情報責任者に就任。
ハロヲタであるが故に、デビューしたてのエッグ出身スマイレージにハマる。
ちなみにハロヲタではあるが、AKBなどももちろん観に行ったりしていたようだが、さすがにAKBにまで手を出すと「家庭崩壊が起きる」と考え、自重することとなったようだ。
そして時を同じくして、可憐Girl'sの中元すず香のファンになったのをきっかけに、中元の参加するさくら学院を“箱推し”することとなったが、ここで菊池最愛の大ファンになり、以降さくら学院の熱心な父兄の一員となる。
そして2011年2月28日。
タワーレコード代表取締役に就任。
同年6月には、先述のNegiccoなどを迎えるべくタワーレコードアイドル専門レーベル「T-Palette Records」を立ち上げた。
とまあ、社長就任に至るまでのヲタ経歴はこのような感じです。
ちなみにファンであることを公言したアイドルには、辻希美、熊井友理奈、紺野あさ美、菊地最愛、中西香菜、浜浦彩乃、島村嬉唄、井上玲音などがいる。
最初ドルヲタとなったきっかけが当時14歳だった辻希美であること、ハロプロ研修生のお披露目会にもよく行っていること、菊池最愛・浜浦彩乃など推し始めた時の年齢が若いことなどの理由からロリコン疑惑が浮上して久しい。
当のご本人はそうした反応には少々困惑気味のようです。
しかし、2013年にはtwitter上で
という発言(多分酔っぱらって脳内だだ漏れしたんでしょうけど)があったり、
2015年3月のタワレボ『南波一海のアイドル三十六房』内ではスマホの壁紙が菊池最愛であることを暴露されたりしている。
決定的な証拠として、各々ファンであるNegiccoとさくら学院(のBABYMETAL)との写真での表情に注目してもらいたい。
おわかりいただけただろうか?
どちらの嶺脇社長も笑顔ではあるが……これはもう限りなくブラックに近いグレーといったところではないか?
実に素直な人だw
なにはともあれ、社長となってからもドルヲタとしての活動を以前にも増して精力的に続けており、というかむしろ職権乱用と言われても仕方ない勢いでヲタ道に邁進しているご様子。
風の噂で聞いたところによると、タワーレコード社長室では常にアイドルの楽曲やらMV・ライブ映像が流されているとかなんとか…。
ここまで来たらもはや病としかいいようがないレベル。
ただ、ドルヲタであることを除いても、例えば新宿店店長時代にスタッフ一人ひとりと密にコミュニケーションをとったり、アイドル物とはいえ「これがいいんだ!」と一つのテーマを与えて将来的な道筋なり創意工夫を部下たちに促したりと、冷静に考えて、仕事の上では大変優秀な方であることは否定しえない事実。
加えて、一企業の社長という立場でありながら、本当に自分が好きなものを好きだといえる人間味溢れる言動、そしてそこへ注ぐ情熱の深さ、それらがいかんなく滲み出る人柄には、推される側のアイドルをはじめ、同じドルヲタの方々からも愛されてしかるべき人物像が明確に見て取れる。
これからもますますドルヲタ道を極めていってほしいと思う今日この頃です。
【おまけ】さくら学院の菊地最愛推しタワレコ嶺脇社長を愛でる動画
≪参考資料≫
・『タモリ倶楽部』2011年11月25日放送分
・『現代ビジネス』2011年12月
・Mikiki「嶺脇育夫のロマンスを語って」
・ニコ生やタワレボなどなど…他多数