東京は文京区と台東区にまたがり、今も古き良き下町の風情を残す通称“谷根千”。
関東住みの方の散歩コースに限らず、最近では海外からの旅行客の観光スポットにもなっているこの辺りを、今回ブラっと歩いてみました。
学生時代、通っていた大学の本部キャンパスが近かったので、この界隈には長らく住んでいた。
今回は有名どころはそれとして、ちょっとマニアックな情報も紹介できるかと思います。
で、一応注意事項。
注1)観光地化しているとはいえ住宅街なので、散歩等散策の際、騒いだりしないようにしましょう。また写真など撮る場合は注意しましょう。
注2)指定の有無を問わず、貴重なものもあるので破損・落書きなのどしないようにしましょう。
注3)一応言っておきますが、山手線の圏内です。中です!
ではでは早速ブラっと行ってみましょう。
▼目次
【上野発、谷中界隈へ】
東京は北の玄関口・上野駅の公園口を抜けると、上野公園をはじめ各博物館・美術館が立ち並ぶ。
そこを東京藝術大学方面へ進む道をまっすぐ行くと、台東区谷中の入り口だ。
目印はこちら、
区立下町風俗資料館敷設展示場(旧吉田屋酒店)
こちらの建物自体は上野桜木町の住所だが、谷中の街はここから広がっている。
その向かいにはすでに
と、こんな感じの喫茶店があったりする。
この谷中は住宅街である以上に、実はお寺街でもあったりする。
江戸の昔、江戸城から鬼門にあたる方向であることから、その守りを固めるためにたくさんの寺院が江戸城から見て東北方向に建てられたという。
その一番端っこがちょうど谷中界隈にあたる。
こんな感じでズラっと並んでいる。
時々お坊さん同士が回覧板片手に行ったり来たりしている姿が見れたりして、ちょっとホッコリする。
谷根千の中でも谷中ってかなり面積が広かったり、観光スポットも多いけれど、個人的に一番好きな谷中の風景がこちら。
谷中名物ヒマラヤ杉。樹齢は90年超といわれている。
付近の再開発の話しが上がった際には切り倒す云々という話しも出たらしいけれど、いまだ健在。
いわば谷中の主という風情で佇んでいます。
またこの杉の傍らには
『みかどパン店』さんがあります。古き昭和の香りがしますね。
もちろん今でも営業されていて、『ヒマラヤ杉ラスク』などのオリジナル商品をはじめ、お菓子や飲み物など買えます。
cf,谷中のシンボル!樹齢90年超の「ヒマラヤ杉」と「みかどパン店」に胸がキュンキュン ( 己【おれ】)
ヒマラヤ杉から谷中の空を望む。
高い建物があまりないから、空がくっきりと見えます。
※再度注意、ここは山手線の中です!
周辺の路地はこんな感じ。レトロな雰囲気が好きな人にはたまらない風景が広がってます。
さて、ヒマラヤ杉にほど近いところにあるのがこちら
大名時計博物館。
こちらは陶芸家・上口愚朗が生涯をかけて収集した大名時計がずらり展示されている資料館。
収蔵品はどれも、江戸時代に大名お抱えの御時計師達が、長い年月をかけて手造りした時計です。
cf,大名時計博物館 (TAITOおでかけナビ)
ちなみにこちらは勝山藩の下屋敷跡になります。
大名時計博物館の裏塀あたり
この坂道と言い、風情がなんとも心地良い。
フツーにブラブラ歩いても、こんなアンバランスな光景に出くわすことしばしば。
谷中から千駄木界隈に近いところまで来ると、ちょっと見落としがちですがこんな道があります。
通称へび道。
その名の通りクネクネと曲がった道が続いています(曲がり具合がお分かり頂けるだろうか?)。
このへび道は、現在は暗渠化している藍染川の上にあります。ですのでこのように曲がっているという次第。
また、上記写真において、、左側が文京区、右側が台東区という区界にもなっています。
cf,へび道をくねくね歩く
しっかし、クルマがフツーに止まっている通り、この道でもちゃんとクルマが通るんだから凄い…。
で、ちょっくらワープしまして、
こちらは谷中界隈でも大きな面積を占める谷中霊園。徳川慶喜の廟があることでも有名ですね。
この辺りから霊園内にまっすぐ進むと戦後すぐまであった五重塔跡があります。
昭和32年の焼失以来一度も再建されず現在に至ります。
cf,谷中五重塔放火心中事件
この辺りは冒頭であった旧吉田屋酒店をまっすぐ三崎坂方面へ向かったところにある。
この三崎坂を境に、ここまで紹介したヒマラヤ杉などは上野寄りになる。
そして日暮里方向はまた趣を多少異にする感じで、街の雰囲気も一遍する感じがある。
こんな感じで昔の建物を今風にリフォームしたギャラリーや貸会場などがあったりする。
こちらは谷根千の顔といってもいい喫茶店・乱歩゜。
店名の由来となった江戸川乱歩と谷根千との関係は【千駄木~】のところで後述します。
でも、私が住んでいた7~8年前とはやっぱりいろいろ変わっている。
スカイツリーとか見えるあたり、変わってしまったなという哀愁を感じる。
さてさて、谷中の日暮里方面には谷根千の代名詞ともいえるこちら
観音寺の築地塀。
赤穂四十七士が度々会合を開いたと言われるこちらのお寺を訪れたら、一気に江戸までタイムスリップした気分になれます。
またこちらにほど近いところにあるのが
岡倉天心記念公園。
東京藝術大学の設立にもかかわって氏の旧居跡に立っています。
園内には六角堂という天心坐像が据えられた建物がありますが、それ以外にも至る所に六角形の形をしたものが多数置かれています。
是非探して見てください。
≪谷中で紹介したところ≫
【弥生発、根津を渡る】
お次は根津界隈。
と、その前に出発点の根津入口に面した文京区弥生の地にはこういう碑があります。
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎ら3名が赤焼きのつぼを発見したところ、それらが縄文式の土器と異なっていたことから地名を冠し弥生式土器と命名された。
また、都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として大変貴重な場所でもある。
場所は東京大学の工学部と農学部の間を通る言問通り沿い。
この『弥生式土器』の名称及び、“弥生”という地名の存続には作家のサトウハチローが深く関わっているという話しを聞いたことがある。
彼の旧居もここにほど近い根津の住宅街にある。
文京区は坂の街としても名高いが、さっそくこんな風景に出会う。こちらは異人坂。
かなりの高低差がある。
で、この異人坂近くには地元民以外では見落としてしまうであろう階段がある。
それがこちら
お化け階段。
上から見るとこんな感じ。
で、なぜ“お化け階段”と言われるかというと、登った時と降りた時とで段数が違うことからきている。
……なぜ段数が違うのか?
ホント、なんででしょうかね?
こちらの階段、今でこそ拡幅されていますが、以前はホントに狭い階段だったようです。
cf,昔のお化け階段
私の撮ったものにも旧階段が保存されていることが分かると思いますが、谷根千界隈ではどこでも、こうした古いものを残しつつ新しい時代に即してという考えが広まっているように感じます。
さて、根津の中心部にあるシンボル的な建物といえば根津教会。
レトロな雰囲気が窺えます。
そして根津の中心地と言えばこちら根津神社。
江戸の時代から伝わる社殿や神輿など、数々の宝物を間近で見ることができます。
立派な山門の左手側に広がるのはつつじの杜。
毎年4,5月には盛大なお祭りも開かれます。
ここは元々、江戸幕府3代将軍徳川家光の三男・綱重の下屋敷があったところで、後に6代将軍となる家宣はここで生まれています。
そして境内には家宣の産湯井戸(非公開)や、昔の慣例にならい生まれた際の胎盤を収める胞衣塚などがあります。
また2つのお稲荷様を併せていて、鳥居のトンネルがあったりします。
映画等でも時折ロケ地になっていたりしますが、一応撮影規定がありますのでリンクを貼っておきます。
cf,根津神社境内撮影等使用規定
根津界隈は結構グルメなスポットが多いのですが、今回はそこらへんスルーしているのでこの辺で。
≪根津で紹介したところ≫
【根津から千駄木へ】
根津神社の袂には日本医科大学が聳えているけれど、その横道をちょっと進んでいくと、そこではすぐに近代日本文化黎明の頃の空気に出会える。
夏目漱石旧居跡。通称・猫の家。
漱石の旧居跡として名高いのは、漱石山房跡の早稲田・漱石公園だけれども、こちらは漱石デビュー作となった『吾輩は猫である』などが執筆された頃、丁度イギリス留学を終えて帰国してから住んでいた旧居跡である。
こちらの碑の字は川端康成の手によるもの。
写真を撮り忘れたけれど、近くの塀の上にはちゃんとネコの姿がある。
ちなみにここの漱石旧居は現在、愛知県犬山市にある明治村に移築されている。
千駄木界隈も寺院の多い土地柄ですが、田端も近いせいか、いわゆる文豪の旧居跡が多い。
こちらは高村光雲旧居跡。
旧居跡というか、ご子孫が今でも住まわれています。
そのほど近く
戦前のプロレタリア・民主主義文学の旗手・宮本百合子旧居の門塀跡。当時のまま保存されています。
旧安田楠雄邸跡。現在は庭園として公開されており、毎年夏には庭先の防空壕なども限定公開されています。
こちらの邸宅と庭は、元々「豊島園」の創始者である実業家・藤田好三郎によって造られたもので、後に安田家に買い取られた。
こちらは須藤公園。千駄木界隈屈指の名家・須藤家の庭の一部が現在公園として残されています。
夏の頃には蝉しぐれが心地よい納涼の場所となっています。
一応念のため再々申し上げておきますが、ここは山手線の中です!
そして千駄木随一のメッカといえばこちら、
森鴎外記念館。
現在はすぐそばに移設されている文京区立本郷図書館はもともとここにありました。移設後、こちらは鴎外記念館として独立しています。
ここは鴎外の書斎・観潮楼の跡地で、記念館内を進むと、当時の庭などもそのまま保存されており見ることができます。
裏塀はこんな感じ。近くの7-11が目印。
そしてこの鴎外記念館の前に面するのが団子坂という坂道。
文京区には坂の街と言っていいほどに大小様々な坂道が多い。
このことについては別件で記事が掛けてしまうくらいの話題があるのだが、それはまた別の機会に譲りたい。
で、この団子坂は先に名前の出た江戸川乱歩の作品『D坂の殺人事件』の舞台ともなった場所だ。
D坂の殺人事件
ここから駒込方面に行くと“動坂”という大きな坂道に出くわすが(都立駒込病院付近)、同じ“D”の付く坂でも乱歩の『D坂~』の舞台はこちらの坂だ。
ちなみに、動坂を下りきったところにある不忍通りとの交差点にある『動坂食堂』というお店は、ワタクシイチオシです!
安くてボリュームあって美味しい! という三拍子そろった昔ながらの食堂風情がなんとも雰囲気良くてオススメです。
cf,動坂食堂 (食べログ)
(食べログの評価がちょっと微妙で残念…)
閑話休題。
団子坂を下ったところ、不忍通りとの交差点付近が東京メトロ千代田線の千駄木駅になります。
写真手前が団子坂。奥が【谷中~】で紹介した三崎坂。
この間を現へび道である藍染川が流れていた。ちょうど谷間にあたるイメージを思い描けるだろうか?
≪千駄木で紹介したところ≫
【千駄木から再び谷中、そして日暮里へ】
散歩も終盤というところ。
東京メトロ千代田線・千駄木駅付近から不忍通りを巣鴨・池袋方面に歩みをすすめると、ブックオフがある。
そこをちょっと入ったところに
こんなお店がある。
残念ながら、こちらの鉄兵さんが目的ではない。
実はこちらにもともと入っていたのは、日本一マズイラーメン屋として名高かった彦龍さんである。
在りし日の彦龍。
私も時々食べに行っていたけれど、正直マズイ、というかおいしくなかった…。
でも、店主の原さんの明け透けで傲慢で、裏表ない感じでズケズケモノを言う人柄が好きで、自分を含めファンは多かった。
確か、閉店の際は都内でイベントが開かれたはずだ。
しかし、そんな原さんも現在は鬼籍つかれている。
cf,日本一まずいラーメン屋「彦龍」閉店ナイト! | 前半 (ニコニコ動画)
原憲彦 (Wikipedia)
さて、そんな旧彦龍を後にして、ほど近いところにあるのが、もはや全国的な知名度を誇るこちら、
谷中ぎんざ。
細い路に所狭しと様々な商店が立ち並ぶ。
平日でもこの賑わい。
この谷中ぎんざの代名詞といえば
この夕やけだんだんだ。
以前は奥にある建物は無く広場だった。その広場はノラ猫の集会場だった。
さてさて、この階段を登り切って進むとJR日暮里駅へと続くが、その道すがらにあるこちら
谷中せんべい。
こちらの濡れ煎(今でもあるのかな?)は殊にオススメ。
そしてそこから路地に入ってあるのは、日本で初めてバケツリレーが行われた際に使われた井戸です。
しかしこの井戸自体、個人宅の敷地内にあるため、撮影等する際には許可を得るなどくれぐれも注意してください。
※許可を得て撮影しましたが、念のため掲載は差し控えます。
で、最後の最後になりますが、私がこの谷根千界隈で一番お勧めしたいスポットをば。
住所的には西日暮里になりますが、日暮里駅を出てすぐに出くわすこちらの寺院
大黒山経王寺。
こちらの寺院の山門ですが
なにか気づきませんか?
ちょっとアップしてみましょう。
穴があいているのが分かりますか?
この穴は、幕末・明治維新の慶応4年(1868)、上野戦争の折、敗走した彰義隊士をこちらの経王寺でかくまっていたところ、新政府軍の銃撃を受けた際にできた痕なんです。それが現在でもそのまま残っています。
ぜひ日暮里に行った際は注目してもらいたいポイントですね。
cf,上野戦争
≪日暮里までに紹介したところ≫
とまあ、結局いつも通りに個人的に気になるところばっかり集めた感じになってしまいました……。
もっと途中の経路なんかの写真も撮っておけばよかった思ったのですが、それは地図片手に散策した際にでも皆さんの目で確認してもらおうかと思います。
で、後日、【おまけ編】行きます!