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東京駅にまつわるとある雑学

東京の表玄関・東京駅。
先日の東京マラソンでもゴール地点として賑わいましたね。
そんな東京駅にまつわる雑学をちょっくら紹介したいと思います。

まず、東京駅は日本一のプラットホーム数を有しており、
 ・在来線で地上5面10線・地下4面8線の計9面18線。
 ・新幹線で5面10線。
 ・地下鉄で1面2線。
となっている。

新幹線をはじめ主要な幹線の起点駅ともなっているので、
東京駅から乗り換えなし32もの道府県に行くことができる
注:行けないのは福井・三重・奈良・和歌山・徳島・愛媛・高知・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島・沖縄。
  このうち、徳島・高知・沖縄以外にはかつて直通列車があった。

駅舎は葛西萬司・辰野金吾が設計し、深谷市産のレンガを用いた鉄筋造りの3階建て。
1896年(明治29年)第9回帝国議会で新橋―上野間を結ぶ路線に中央停車場を建設することが可決。
日清及び日露戦争後の1908年(明治41年)から本格的な建設工事が開始された。
施工は大林組
1914年(大正3年)12月20日に開業。
この開業年は第一次世界大戦開戦の年でもあり、
中国のドイツ租借地を占領した陸軍司令官・神尾光臣中将の凱旋に際し、
皇居参内するのに合わせて開業式も執り行われた。

…とまあ、この手の話しは東京駅を紹介するガイドブックなんかにもフツーに載ってたりするので
このあたりにしておきますが、

さてみなさん、
日本史の近現代史あたりで
・原敬暗殺事件
・濱口雄幸遭難事件
という二つの事件があったことを覚えているだろうか?

いずれも時の内閣総理大臣が襲撃されるという事件だが、
この2事件の現場はいずれも東京駅の構内で起きている。

◎原敬暗殺事件

1921年(大正10年)11月4日、京都で開かれる立憲政友会の大会へ向かうために東京駅にいた原敬は、
大塚駅転轍手(レールの分岐器を操作する人)・中岡艮一により短刀で右胸を刺されほぼ即死した。
現場は現在の丸の内南口改札前、券売機付近である。

マークは小さい丸印なので見落としやすいが、すぐ近くにプレートがある。


注:ポスターのヤツが中岡艮一ではありません!

中岡が原敬を暗殺した動機は分かっていない。
原政治への不満などいろいろなことが取りざたされたが、
もっとも不可解なのは、この中岡に対する当事件の裁判は異例の速さで行われ、
無期懲役の判決を受けた後の服役も3回の大赦で1934年(昭和9年)に釈放されている。
そしてその後、第二次大戦中は比較的安全と言われた陸軍司令部に勤務している。
ちなみに中岡はイスラム教徒である。

◎濱口雄幸遭難事件

1930年(昭和5年)11月14日、陸軍演習の視察等のため東京駅のホームにいた濱口雄幸は
右翼団体・愛国者社員の佐郷屋留雄に至近距離から発砲を受けた。
弾丸は骨盤を粉砕しており、緊急手術により腸の30%を摘出するも一命を取り留めた
しかし濱口自身が放射状菌という特殊な細菌の保菌者だったこともあり、
その細菌が傷口から侵入・化膿したことによるアクチノミコーゼ(放線菌症)のため翌年死去した。

現場は現在の10番線にあたり、東海道本線(在来)ホーム8号車乗り場付近であるが、
ホームにはそれといった目印はない。
代わりにその直下、中央通路・新幹線中央乗換口付近の床に一枚だけ装飾のほどこされたものがあり、
それがこの事件の現場の目印となっている。


頭上近くには案内掲示板がある。


(2017年04月07日 画像追加)

また近くにはプレートもあるので比較的見つけやすい。

東京など大都会にはこうした歴史的事件の現場というのがごく身近に多くある。
もちろん地方にもあるが。
しかし、そうした現場を散策し顧みることは、
普段我々が生活している空間にはさまざまの歴史が積み重なっていることに
あらためて気づかされることでもある。
それは決して過去の産物や過ぎ去った時間の有した経験というだけでなく、
未来の人たちから今現在私たちが預かっているものなのかもしれないという視点でみれば、
昨今の政治や社会情勢、文化の浮沈なども、
他人事として片付けてはいけない気持ちになってきはしないだろうか?

≪参考文献≫
 
 
歴史の意外な結末

 
 
有名人の死亡診断書 近代編

 
 
浜口雄幸 たとえ身命を失うとも

 などなど……

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