先日、国立公文書館のデジタルアーカイブで調べものをしていたらこんなものを見つけた。
●幼女遺筆 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
別段“幼女”という言葉に惹かれたわけではないが、
ちょっと気になったのでリンクを辿ってみると、2通の古文書が掲載されていた。
なんとも幼子らしい手である。
しかし“遺筆”となっているのにひっかかってちょっと調べてみたが、
これを書いた松平露(露姫)は数え歳で6歳の時、天然痘が原因で他界していた。
cf,松平露 (Wikipedia)
上記wikipediaのリンク内容ほぼそのままだが、
文化16年(1817年)、因幡国鳥取藩の支藩、
若桜藩第5代藩主・池田定常(松平冠山)の十六女として江戸に生まれた。
亡くなったのは 文政2年(1822年)。
江戸とはいえ紙など貴重な時代。
よくぞ残っていたと思うが、この遺筆は露の死後に机の中から見つかったもののようだ。
これは幼女遺筆(手紙)の方だが、
父・定常(冠山)に宛てたもので
「おいとたか
ら / こしゆあ
るな / つゆがお
ねかい申ます /
めてたくかしこ
おとうさま
まつたいらつゆ
上あけるつゆ 」
と書かれている。
意味としては
「お父上はもうお歳なのだから、あまりお酒を召し上がらないように
つゆはお願い申します めでたくかしこ」
といったところか。
幼子として父の身体を気遣う心配りが微笑ましくもあり、
また早熟した具合も見て取れるが、
最愛の幼娘を亡くした父が、その死後でこの遺筆を目にした時の心中は、
想像を絶するほどの悲嘆に満ちたものだったのだろう。
実際、父・定常(冠山)は相当な酒豪であったようだが、
後年の記録によれば、この遺筆を読んで以降お酒は一切口にしなかったという。
またもう一点、
これは侍女であった「たつ」と「とき」の二人に宛てた和歌で、
「ゑんありて たつときわれに つかわれし
いくとしへても わすれたもふな
とき たつ さま 六つ つゆ 」
とある。
意味としては
「ご縁あってこの世を旅立つときに私に仕えていたあなた達二人、
いつまでも私のことを忘れないでいてください」
といったところだろう。
この和歌の中「たつときわれに」という部分、
侍女二人の「たつ」「とき」の名が掛けられているところを読むにつけても涙が誘われる。
時代的なこともあるだろうけれど、数えで6歳の子が詠んだ歌とは思えない出来だ。
後年、父・定常(冠山)は亡娘の菩提を弔うと共に、
その遺筆を模刻した木版刷りを親類縁者に配布した。
それが方々で評判を呼び、江戸の文人らを筆頭に、
多くの著名人が追悼文や詩歌の類を贈ったと記録されている。
それらは後に全30巻に及ぶ『玉露童女追悼集』として纏まとめ上げられ、
露姫が生前とくに参詣していた浅草寺に奉納され、現在いまに伝えられてる。
また1988年からは刊行会より全5冊にまとめられ出版されており、国会図書館でも閲覧可能だ。
cf,玉露童女追悼集 (国立国会図書館サーチ)
※本文中の写真は国立公文書館デジタルアーカイブ内の該当箇所より
画像ダウンロード表示により取得したものです。