ネットサーフィン見聞記 | ページ 106
2018年5月の本 ←書評のような記事にとびます。


2017年04月の本


久米正雄伝
小谷野敦

出版社:中央公論新社
発売日:2011/05

この男、いったい何者なのか。
久米正雄という人の名を知る人はきっと多いはずだ。
芥川龍之介や菊池寛らの帝大の同級生にして
共に新思潮の同人としても活動した人物である。
職業・小説家。
しかし、彼の書いた作品を知る人はいるだろうか?
別段その作品数が少ないわけではない。
生前には通俗小説の雄としてかなりの売れっ子だったのだ。
ではなぜその作品が現在ではほとんど顧みられることがなくなってしまったのか。
著者は言う「彼の全小説に目を通したが面白くなくつまらないもので苦痛だった」
文章力はあったが普通の人が間違って作家になった人だと結論付けている。
残念ながら、事実そうなのだ。
ではなぜ久米正雄という人はいまだに日本の近代文学史の中にたびたび顔をみせるのだろう。
冒頭にも書いた通り、芥川龍之介や菊池寛といった友人と関連付けられる場合もあるだろう。
漱石門下の一人としてもそうだろうし、
また、新思潮の同人だった松岡譲と漱石の長女をめぐって恋愛事件を起こしたからだろうか。
この一件に関しては師・漱石の『心』さながらの騒動であったようだが…。
個人的に久米正雄の最大の功績は、文学作品の戯曲化と映像化の先駆けであったことだと思う。
いうなれば、現在、マンガをアニメ化したり実写映画化したりすることのハシリと言えるだろう。
もちろん、そうした試みは久米正雄以前にもあったにせよ、
本格的な意味で取り組んだのは彼が最初ではないだろうか?
また最晩年の芥川龍之介を映したあまりにも有名な映像は
宣伝広告に映像を用いたはじめの一つとしても評価できる。
結局のところ、本当ならば才に恵まれた文学で評価されるのではなく、
それ以外の分野で評価されてしまった人なのだ。
“普通の人が間違って作家になった人”とは実に的確な指摘だと思う。
本書はそんな久米正雄のほぼ唯一の評伝である。
文壇の死角にスポットを当てたこの労作は、
大正・昭和の文化史を探る上でも貴重な本といえる。




心は孤独な数学者
藤原正彦

出版社:新潮社
発売日:2000/12/26

10余年前、『国家の品格』というベストセラーが世に出たことを覚えているだろうか?
著者は藤原正彦。本書の著者でもある。
氏の名前は、ベストセラーで世に馳せる以前からも知る人ぞ知るものではなかったか?
父は新田次郎、母は藤原てい。氏はその次男である。
では彼の職業はなにか? 実は数学者だ。
お茶の水大学名誉教授。それが氏の肩書だ。
本書はニュートン、ラマヌジャン、ウィリアム・ハミルトンという
名だたる数学者にスポットを当て、
その生い立ちと人生、才ゆえの栄光と苦悩をユーモアあふれる筆致で描いたエッセイ集だ。
著者自身が同業の身として憧れ続けた三人の天才数学者。
同じ数学者であるが故に抱ける愛情と理解は、時に厳しく時に愉快に読む者を愉しませてくれる。
ウィリアム・ハミルトンが四元数を発見したという橋跡を訪れた著者。
その時の描写を読んで、私はふと「数学」というものの真髄を見た気がした。




国立国会図書館の理論と実際
シ/暗黒通信団

出版社:暗黒通信団
発売日:2017/03

タイトルだけは大変マジメである。
こんなことを言っては怒られてしまうだろうか?
だって暗黒通信団だもん。
きっと何かしらやらかしてくれるであろうことを期待しつつページをめくって驚いた。
これは、もはやイヤガラセである。
どこまでが“(国会図書館的に)本”なのか、
つまり国会図書館に収めてもらえるか否かの極限を見極めようとする試みの記録である。
「これは収蔵ok、でもこっちは拒否」
闘いという名のそんなやりとりが延々収録されている。
様々な形式の本たちに、国会図書館が日本の図書館の雄としてどのようなジャッジを下すのか、
なかなかの見物である。
個人的にとてもいいと思ったのは、収蔵拒否された本に関するエピソードも載っている点。
これについては著者自身も自画自賛しているらしい。




「リベラル保守」宣言
中島岳志

出版社:新潮社
発売日:2015/12/23

ちょっとトリッキーなタイトル。
相反する「リベラル」と「保守」という二つの概念の共存。
数年前に一部を賑わせた本書は、本来の保守的思想の立場を解説したうえで、
そもそもリベラルという概念とは対立しないものであると主張している。
それが「リベラル保守」
保守とは漸進的改革の志向であり、それはすなわちリベラルであるというのだ。
要は現実的であるということ。
そうした著者の思考は現実の問題と対峙して政治や社会風潮への批判へとつながっている。
「○×したから保守」だとか「これこれだからリベラル」などという安易なレッテル貼りは、
政治家や一般人を問わず世に満ちている。
しかし問題なのは、そうした表層での差異を論じるよりも、
そこから抽出されたエッセンスを基にした定義付けなのではないか?
その時見えてくる地平には一体なにがもたらされるのだろう。
ふと、戦前の共産主義と軍国主義の構図が頭に浮かんだ。






文化庁のとあるページがツッコミどころ満載な件について

まずはこちらのページを見ていただきたい。
↓↓↓↓
日本文化の海外発信 (文化庁)
はい、文化庁が公式Youtubeチャンネルにて各種関係団体からの映像提供のもと、
日本の伝統文化国内外に発信するためのページです。
皆さん、なにか思いませんか?

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2017年03月の本


棋士の一分
橋本崇載

出版社:角川新書
発売日:2016/12/10

プロレス、相撲、メタル……
昨今、かつてその人気が一度は凋落したジャンルの復活が目覚ましい。
そこには様々な試行錯誤があったに違いないが、
内部で関わる人だけでなく、往年のファンをも含めた
大々的な意識改革が形而上でも形而下でもあったことは想像に難くない。
ではそれを突き動かしたものは何か?
様々な要因の中で共通するのはやはり危機感ではなかったろうか?
ネット上でも折に触れ話題をさらっていくハッシーこと橋本八段。
彼が旧態然としている日本将棋界の改革を、
半ば内部告発とも言うべき内容にまで触れて声を上げている本書。
「若い人が立ち上がるようにならないと、本当に先がない」
コンピュータ将棋への否定的な姿勢、故・米長元会長への名指しの批判。
かなり手荒い感じは否めない。
しかし、こうした抗戦的な姿勢は将棋界にとどまらず、
世間に未だはびこる旧態然とした組織を改革する上では必要なはずだ。
単に抗うというだけでなく、今を未来につなげるために。
静かに衰退する道を選ぶか、再びファンを熱狂させる盛り上がりを見せるのか、
著者の言うとおり、それを選ぶのは今しかないのかもしれない。
しかしこの本には、個人的に非常に残念な思いがある。
本文の中にも出てくるが、昨年秋の三浦九段をめぐる疑惑。
もしこの一連の疑惑の前に本書が刊行されていたのなら、
橋本八段の言葉は、将棋ファンのみならず多くの人々の意見と相まって、
それこそ本格的な改革の道しるべとなったと思う。
冒頭でこのことについても触れられているが、
せっかくなのでもっと踏み込んだ意見を聞きたかった。
また、刊行間もない頃のtwitter上での発言及びその削除など、
せっかくの本書の内容を単なる愚痴のようにしか読めなくしてしまったのが口惜しい。
もし本当に橋本八段が棋界の改革、再興を図りたいというのなら、
誠意ある対応が望まれることは必須だが、心中はいかほどなのだろう。




ぼくらは地方で幸せを見つける
指出一正

出版社:ポプラ新書
発売日:2016/12/09

私には折に触れ、夜通し語り合う友人がいる。
友人といっても私の倍以上の年齢。また、互いに地方に居を構えている。
以前は近場に暮らしていたこともあって、その頃は原稿書きの締切そっちのけで話しに花が咲いた。
その友人との話しのテーマにたびたび上がるのが“生身”という感覚についてのこと。
ネットやスマホの普及により、生身を体感せずともコミュニケーションがとれる時代。
だが人は、どこかでその暖かみや冷酷さを求めているのではないか?
雑誌『ソトコト』の現編集長が語る地域論。
地方活性化のキーポイントとして上げられる「人」。
しかし世代も違えば生まれ育った環境も違う者同士が、
同じ時代にひとつの地域の中でどう関係性を構築すればよいのか。
本書には全国さまざまな地域に移住し、その地域を再興させた若者たちの例が豊富だ。
その底流にゆるやかにただようある種の傾向は、
自然やモノ、あるいは人と人との“生身”の関係性に他ならない。
「関係人口」という概念が語るのは、そうした生身の関係性の中に新たなる価値を見出し、
それを発展・展開させていく地域再生の方向なのだろう。
私自身も地方、殊インフラの利便性も決していいとは言えないところに住んでいるが、
実際自らの周りで本書にある様な若者の例を聞くことはほぼない。
故に一握りの成功例といってもいいのかもしれない。
ただ、そう言い切って切り捨てるのは愚かだ。
価値観は変わる。
この先、それがどういう方向性にシフトしたとしても揺るぐことのない生身の感覚こそが、
地方活性の新たなカギとなるはずだ。




ホンのひととき
中江有里

出版社:毎日新聞社
発売日:2014/09/05

著者の中江さんは本当に本が好きなんだな、と静かに思う。
大の読書家で知られる女優・中江有里さんのエッセイ。
本書はエッセイ・読書日記・書評という三部構成になっているが、
どこから読んでも中江さんの本に対する真摯で愛情あふれる姿が垣間見れます。
ヒトがヒトをつなぐように、本も本をつなぐ。
いろんなものにその道々の“ジャンル”というものが存在するが、
そうした垣根を越えた緩やかなつながりを愉しむという味わい方も確かに存在する。
「私はこのジャンルに明るいから」だとか
「ソッチの方はあんまり得手じゃないんだよね」だとか、
そうしたことはお構いなしに、
「もっと読んでみたい!」という魂の震えのような読書愛を追体験できるあたり、
やはりこの人のエッセイは巧いと唸ってしまう。
数々の本との出会い。
巻末に掲載書籍の一覧が付されていますが、
それを眺めるだけでも豊かな読書経験が窺えます。
そんな中江さんが本文の中で語ってるこの言葉はとても大切だと思う。
「同じ本を何度も繰り返し読むこともお勧めします。同じ本ならいくら読んでも内容は変わりません。
だからこそ、読み手である自分の変化に敏感になるのです。」
これぞ読書の醍醐味。




真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話
佐々木閑・大栗博司

出版社:幻冬舎新書
発売日:2016/11/30

個人的に、この本を紹介しようかどうか迷った。
ことあるごとに書いているが、私の学生時代の専攻はインド哲学。
カリキュラムにはもちろん仏教学も含まれていた。
その一方で興味本位で暇さえあれば面白がって取り組んでいたのは宇宙物理や数学だった。
正直、そんな人間にこの本のことを書かせれば、自制が効かなくなること必須である。
実際問題、そのくらい興味深く面白い本だ。
一人は世界的な理論物理学者。一人は仏教学者のユニークな泰斗。
一見相反する立場にある学者同士によるこの対話篇は、
時に枝道にそれ、時に互いの考えを確かめ合いながら、
「生きる事の意味」という人類普遍の問題に切り込んでいく。
結論を言えば「意味はない」。帯にも書いてある。
だが本書の凄いところはそこにとどまることなく、
むしろそこからが新たなスタートであると言わんばかりの論点を見せる。
ネタバレにもなってしまうので詳しくは読んでいただくしかないのだが、
仏教と物理との関連を説く書籍は巷にゴロゴロあるが、
これほど痛快なものには久しぶり出会った気がした。
そもそもこれn……(長くなるので以下略
それはさておき、
佐々木先生のこうした研究に対しては同学の学者からの批判が多いことも確かだ。
しかし、それを一種のアウトリーチと捉えるならば、
他分野との垣根を越えた新たな学術研究の進展につながることを期待してやまない。