本の話し

2017年04月の本

 
久米正雄伝
小谷野敦

出版社:中央公論新社
発売日:2011/05

この男、いったい何者なのか。
久米正雄という人の名を知る人はきっと多いはずだ。
芥川龍之介や菊池寛らの帝大の同級生にして
共に新思潮の同人としても活動した人物である。
職業・小説家。
しかし、彼の書いた作品を知る人はいるだろうか?
別段その作品数が少ないわけではない。
生前には通俗小説の雄としてかなりの売れっ子だったのだ。
ではなぜその作品が現在ではほとんど顧みられることがなくなってしまったのか。
著者は言う「彼の全小説に目を通したが面白くなくつまらないもので苦痛だった」
文章力はあったが普通の人が間違って作家になった人だと結論付けている。
残念ながら、事実そうなのだ。
ではなぜ久米正雄という人はいまだに日本の近代文学史の中にたびたび顔をみせるのだろう。
冒頭にも書いた通り、芥川龍之介や菊池寛といった友人と関連付けられる場合もあるだろう。
漱石門下の一人としてもそうだろうし、
また、新思潮の同人だった松岡譲と漱石の長女をめぐって恋愛事件を起こしたからだろうか。
この一件に関しては師・漱石の『心』さながらの騒動であったようだが…。
個人的に久米正雄の最大の功績は、文学作品の戯曲化と映像化の先駆けであったことだと思う。
いうなれば、現在、マンガをアニメ化したり実写映画化したりすることのハシリと言えるだろう。
もちろん、そうした試みは久米正雄以前にもあったにせよ、
本格的な意味で取り組んだのは彼が最初ではないだろうか?
また最晩年の芥川龍之介を映したあまりにも有名な映像は
宣伝広告に映像を用いたはじめの一つとしても評価できる。
結局のところ、本当ならば才に恵まれた文学で評価されるのではなく、
それ以外の分野で評価されてしまった人なのだ。
“普通の人が間違って作家になった人”とは実に的確な指摘だと思う。
本書はそんな久米正雄のほぼ唯一の評伝である。
文壇の死角にスポットを当てたこの労作は、
大正・昭和の文化史を探る上でも貴重な本といえる。

 
心は孤独な数学者
藤原正彦

出版社:新潮社
発売日:2000/12/26

10余年前、『国家の品格』というベストセラーが世に出たことを覚えているだろうか?
著者は藤原正彦。本書の著者でもある。
氏の名前は、ベストセラーで世に馳せる以前からも知る人ぞ知るものではなかったか?
父は新田次郎、母は藤原てい。氏はその次男である。
では彼の職業はなにか? 実は数学者だ。
お茶の水大学名誉教授。それが氏の肩書だ。
本書はニュートン、ラマヌジャン、ウィリアム・ハミルトンという
名だたる数学者にスポットを当て、
その生い立ちと人生、才ゆえの栄光と苦悩をユーモアあふれる筆致で描いたエッセイ集だ。
著者自身が同業の身として憧れ続けた三人の天才数学者。
同じ数学者であるが故に抱ける愛情と理解は、時に厳しく時に愉快に読む者を愉しませてくれる。
ウィリアム・ハミルトンが四元数を発見したという橋跡を訪れた著者。
その時の描写を読んで、私はふと「数学」というものの真髄を見た気がした。

 
国立国会図書館の理論と実際
シ/暗黒通信団

出版社:暗黒通信団
発売日:2017/03

タイトルだけは大変マジメである。
こんなことを言っては怒られてしまうだろうか?
だって暗黒通信団だもん。
きっと何かしらやらかしてくれるであろうことを期待しつつページをめくって驚いた。
これは、もはやイヤガラセである。
どこまでが“(国会図書館的に)本”なのか、
つまり国会図書館に収めてもらえるか否かの極限を見極めようとする試みの記録である。
「これは収蔵ok、でもこっちは拒否」
闘いという名のそんなやりとりが延々収録されている。
様々な形式の本たちに、国会図書館が日本の図書館の雄としてどのようなジャッジを下すのか、
なかなかの見物である。
個人的にとてもいいと思ったのは、収蔵拒否された本に関するエピソードも載っている点。
これについては著者自身も自画自賛しているらしい。

 
「リベラル保守」宣言
中島岳志

出版社:新潮社
発売日:2015/12/23

ちょっとトリッキーなタイトル。
相反する「リベラル」と「保守」という二つの概念の共存。
数年前に一部を賑わせた本書は、本来の保守的思想の立場を解説したうえで、
そもそもリベラルという概念とは対立しないものであると主張している。
それが「リベラル保守」
保守とは漸進的改革の志向であり、それはすなわちリベラルであるというのだ。
要は現実的であるということ。
そうした著者の思考は現実の問題と対峙して政治や社会風潮への批判へとつながっている。
「○×したから保守」だとか「これこれだからリベラル」などという安易なレッテル貼りは、
政治家や一般人を問わず世に満ちている。
しかし問題なのは、そうした表層での差異を論じるよりも、
そこから抽出されたエッセンスを基にした定義付けなのではないか?
その時見えてくる地平には一体なにがもたらされるのだろう。
ふと、戦前の共産主義と軍国主義の構図が頭に浮かんだ。

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